〇介護職は、やりがいに欠けるか?
超高齢社会になりつつある日本ですが、介護職の不足が社会問題化しています。老人ホームなど介護施設では、スタッフの確保に苦労しているようです。過酷な仕事の割に収入が少ないなどの声もよく聞きます。
仕事の「やりがい」で考えると、介護職は「過酷で、収入も多くなくて、やりがいを見出しにくい」職種のひとつだなんて言い方もあります。はたして、そうなのでしょうか。
仕事と、その仕事から得る達成感という観点で考えましょう。
有形無形の「もの」を作り上げて達成感を得る。
商品を販売して売り上げをアップさせて喜びにひたる。
児童・生徒・学生たちの成長を実感して満足感を手にする教育現場。
人の病気やけがを治して、笑顔を取り戻すことに大いなる達成感をいだく医療現場。
その医療現場にしても、過酷な勤務実態から人員確保が難しいのが現実ですから、高齢者介護の世界は、「満足感や達成感を得にくい職種」と言われる面があるのかもしれません。
〇高齢者介護のゴールって
県内のある有料老人ホームを訪問しました。そこで暮らす高齢者は、それぞれ要介護2から要介護4などと、周囲の支援なしには日常の生活に苦労する人たちです。車いすに頼らないと歩けない人、認知症が進んでいる人、自力で入浴できない人なども大勢います。
「この先、その人の状態が好転する可能性の極めて低い人」。率直な物言いですが、そう表現せざるをえないのです。
医療ならば、完治とか退院というゴールがあります(むろん、完治や退院につながらないケースもあるのは当然ですが)。
建築会社なら建物完成と言うゴールが。
農業ならば収穫というゴールですね。
メーカーなら製品の完成です。
物販の世界ならば、商品の販売がゴールです。
でも、介護の世界のゴールを考えると、やはりせつないものがあります。
老人ホームの施設内外は病院に似ていますが、ここは病院にあらず。認知症が治って自宅に帰るものではなく、体が元気になるものでもありません。日常生活における丁寧な介護の末のゴールは、その入居者の「死」であることが一般的だからです(その施設内で最後を迎えることもあるでしょうし、容体の悪化で病院に運ばれたのちに他界するケースもあるでしょうが)。
「おはよう」「こんにちは」の挨拶のやり取りもできにくい人を相手に介護を続けている場合は、「やりがい」「達成感」「感動」を手にする環境に乏しいと言わざるを得ないのです。懸命に介護しても、相手は反応に乏しい。これはたしかに「やりがい」を見出しにくいと言っても、必ずしも的外れではないでしょう。
〇かすかなシグナルを読み取る
現場の施設長(女性)は言います。
「たしかに、お世話しても、その相手からのきちんとした反応がないと、達成感がわきにくいものですね。相手は体の悪い高齢者だと分かっていても、すぐには割り切れないのです」
「人と人とがふれ合い、支え合うのが、私たち人間社会。だとすれば、支える側の『一方通行』になりがちな介護の世界は、そのふれ合いが実感しにくいだけに、ふれ合うことの喜びという感覚が沸き起こりにくいでしょうね」
若者が「やりがいのある仕事ではない」と落胆するのも分からないではありません。
でも、それだけでしょうか。
人と人とのふれ合いは、言葉のやり取りだけではありません。言葉をほとんど発することがない人、自分の足では歩けない人にしても、言葉によらない「ノンバーバル(非言語)コミュニケーション手段」で、自らの思いを発信しているのではないでしょうか。
「そうなんです。ですから注意深く見つめ、見えないシグナルを読み取り、それに応える努力。これは高齢者介護という仕事のやりがいにつながると思います」
と施設長は言います。
たしかに、普通の人なら、非言語でのコミュニケーションとして「表情」「仕草」「声のトーン」などを大きく変化させます。「目は口ほどにものを言う」ということですね。日常生活でも、ビジネスの世界でも、本音は「非言語の世界にあり」という考え方が、とくに僕たち日本人の社会では色濃く存在しています。
でも、言葉も体も不自由な要介護の高齢者の場合、非言語手段と言っても体の機能が不自由なのですから、ごくごくわずかなシグナルしか発信できません。
「職員が『おはよう』と呼びかけた際に、返事はなくても、ちょっとした表情の変化が生じる時があります。それは、物言えぬ人からのなにがしかのシグナルなんです。そんな経験や読み取る努力の積み重ねで、なにかを感じることができるようになります。
そうなれば、シグナルを送る人のために『なにかをしてあげられる』ことがあるかもしれません。これは、けっして小さくない達成感です。その繰り返しが、介護職の『やりがい』のおおいなるひとつであると思います」
「いつもは咳き込みながら食事する人が、ある日は比較的スムーズに食事を終えた。そうしたら『今日は咳き込まずに、きちんと食べられたよね』と声をかける。その人が、かすかにうなずく。一瞬表情がゆるんだように見えた。そんな時、介護スタッフの心は癒されます。これも小さな達成感にほかなりません」
ちょっとしたシグナルを見逃さないことですね。
「その人に残る機能を、最大限長持ちさせたい。だから、必要以上に手伝ったりしないことも、ひとつの介護です。食事、入浴、施設内の散歩。できる限り、自分の力で。そして足りない面を補ってあげる。そこの呼吸は難しくもあり、仕事冥利に尽きる点でもあります。車いすでも、寝たきりに近くても、『この人には、自分でできるなにかがある』という思いを常に持って接することでしょうか」
〇「老化」「衰え」を直視することの意義
人間は、年老いると子どもに返るという言い方があります。それは心も体も同じです。
赤ちゃんはまったく言葉を口にできません。泣き声を上げるだけです。自分の考えや要望を表現できませんよね。歩くことさえできません。排泄だっておむつ頼りです。それから、這って動くようになり、2本の足で立ち上がり、歩けるようになります。部分的に言葉も発するようになります。自分で食事もできるようになります。そのうち、駆け回るようにもなります。そうやって大人に向かってゆきます。
そんな「成長」を見ることは、誰にとっても大いなる喜びです。
これが老年期は「フィルムの逆回転している」かのように「大人」が「赤ちゃん」に戻ってゆきます。
子どものようにわがままになったり、だだをこねたり。昔から言う「頑固爺さん」「頑固ばあさん」といった悪口の通りですね。僕の周りでも、理路整然とした言動だった人が、「まるで子どもみたい」にわがままになった姿をよく見ます。手足の機能が衰え、歩けなくなったり、寝たきりになったり。自分で食事ができなくなったり。言葉のやりとりができなくなったり。老化による肉体の「衰え」です。
この「逆回転」は「生き物」としての宿命にほかなりません。人の一生の中で、当然展開されることです。そんな「衰え」を直視することは、たしかにせつないものです。
でも、適切な介護によって、その衰えのスピードにブレーキがかけられる。なんにもできない「赤ちゃん」にまで戻らないようにできるとしたら、それは、介護職にしか負えない役割かもしれません。
その高齢者の人生の「最終シーン」を、少しでも明るいものにしてあげられたとしたら。その経験が別の人の介護にも役立つとしたら。
そうなれば、「介護職はやりがいに乏しい」なんて言う余地などなくなります。
話してくれた施設長は「認知症看護認定看護師」の資格を持っています。
「心身の衰えで、かすかなシグナルしか発信できない人の介護のために、その人に残る心身機能のできる限りの維持のために、どうすることが最適なのか。自分で試行錯誤しながら考え、対処しています。通常の病院勤務の看護師にはない、大いなる充実感を感じる日々なのです。責任は重いのですが、今の私は『ようやく自分がやりたかった職場にたどり着いた』という思いに包まれています」
彼女はこんなふうに言います。
苦しいこと、つらいこと、難しいこと。そんな点がたくさんあるのは、世の中のどんな仕事だって、みんな同じ。確かに介護現場の仕事は過酷だと感じますが、介護だけが過酷なわけでもなし。
だから、この老人ホームの施設長さんは「日々、新たな発見、挑戦、感動の連続」の今の高齢者介護の仕事は、「やりがいに満ちた天職」だと感じているのです。
〇施設暮らしの高齢者も「わが師」なり
非言語コミュニケーション手段さえもが満足にはできない、心身の弱った高齢者。そんな人たちから発信されるかすかなシグナルを読み取る作業は、こう考えられませんか?
「高齢者が『かすかなシグナルを読み取る努力が必要なんだよ、誰にとってもね。だって、こんなシグナルを読み取れれば、普通の大人から子どもまで、多くの人が発信する非言語シグナルが、簡単に読み取れるやさしい人になれるじゃないか』と、私たちを諭してくれているんだ」
弱い立場の施設の高齢者が、自分たちに「教え」をくれていると考えられないでしょうか。
心身障害者福祉の世界で、よく使われる表現があります。
「障害者や病人など弱い立場の人にとって住みやすい社会環境は、社会にいる全員にとって住みやすいものである」
そんな言い方です。
人間だけではありません。犬や猫などのペットをテーマにした時も、同様です。人間社会ではペット虐待が絶えません。飼い犬をつなぎっぱなしで散歩させないことから始まって(これも立派な虐待です)、「飼えなくなった」「引っ越しになった」からと、安易に捨てる(捨てられた犬や猫は、結局捕獲されて、別の引き取り手が出なければ、処分センター行きの運命をたどるのです)。日用消耗品を扱うがごとくに、犬や猫を売り買いする「ペット産業の実態」……。でも、彼らは言葉を発すことはできません。それを読み取る必要があるのではないでしょうか。
だからこそ、こんな言い方があります。
「ペットにとって暮らしやすい社会は、人間全員にとって暮らしやすい社会だ」
人間と同じことですね。
インドの父と呼ばれるガンジーの有名な言葉があります。
「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で分かる」
当然です。人の命も、動物の命も、その重さに変わりはありません。
でも、心身の弱った高齢者も、言葉を持たない動物も、自分の主張を簡単には表現できない「弱い存在」という共通項があります。
「だからこそ、かすかなシグナルを読み取る細かな心配りができる人間になってほしい」
物言わぬ高齢者が、必死に「人としての基本的な優しさや、心の持ち方を身に着けるべきだと、若い世代を諭している」と受け止めてはいかがでしょうかね。
両親や祖父母などから「口やかましく」お小言をちょうだいするのも、「年長者から若輩者への諭し」にほかなりません。でも、弱い立場の人の言葉によらない教えを、かすかなシグナルを読み取れれば、その他の多くの人たちのシグナルも理解できるようになるではないですか。
「心身の弱った高齢者の声にならない声を読み取れる社会ならば、大人から子どもまで、全員の気持ちをくみ取れるやさしい社会になることは間違いない」
施設の高齢のみなさんは、お世話を受ける弱い立場であると同時に、僕たちひとりひとりにこんな貴重な教えをくれる「教師」だと思いませんか?
ああ、シンド! ここまで読む人いないだろうけど、ちょっと長かったかな(-_-;)
2015年07月24日
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