2015年09月18日

人はみな「死」なり、か

◎小学生が、僕の「師」になる瞬間
 大人は子どもを諭し、一人前の人間い育てようとします。教師は勿論、親も周囲も、子どもにとっての「師」であろうとします。でも子どもの言動から「ハッとするような」教えをもらうことがありませんか。その瞬間は幼い子が大人に貴重な教えをくれる「師」にほかなりません。
 市内を車で走っていて、前方の横断歩道のところで、小学校低学年とおぼしき女の子が、道を渡ろうと立っていました。僕はブレーキを踏み横断歩道の前で停車。その子は道路を渡しました。そのまま歩き去るのかと思っていた直後でした。
 彼女が僕の方を振り返って、ぺこりとお辞儀。そして口を開いて何かを叫んでいます。口の形で分かりました、
「ありがとう」
 間違いなく、そう言ってくれたんです。
 僕は、涙がこぼれそうになりました。この子の親は、きちんと娘を教育をしているのだなあ、と。彼女は彼女で、その教えを素直に実践しているのだなと。人から親切にされたら、きちんと感謝の言葉を返しなさい。その教えが身についているんですね。
 もちろん、僕が車を止めたことは、実は「親切」ではありません。道交法では、横断歩道を渡ろうと歩行者が待っているときは、車の方が止まらなくてはならないとあります。「当たり前」の行為なのですね。
 それはともかく、人に親切にされたとき、たとえば、道をゆずられた時とかのちょっとしたことですよ。そういうときに、僕自身がきちんと「謝意」を示せているか。反省させられたりもします。
 この瞬間、小学生の彼女は、間違いなく僕の「師」なのです。

◎社会的な「弱者」だって、貴重な教えを
 先日訪問した老人ホームのスタッフが言います。
「寝たきりの人でも、言葉にならないかすかなシグナルを発信しているんです。それを読み取れなくては」。
 明確な意思表示のできない、身体の衰えた高齢者。その世話をする仕事の「やりがい」について質問した際の答えでした。
 高齢者が「私のかすかなシグナルを読み取れる人になれれば、世の中のすべての存在にやさしい人間になれる」と教えてくれているのだと。
 なるほど、納得いく主張です。
 この場合、弱い立場の高齢者がスタッフの師ですね。

◎だれもが「師」なのですから
「高齢者、病人、障害者、さらにはペットなどの動物たち……。それぞれ『弱い立場』です。そんな弱い立場にとって『暮らしやすい社会環境』は、世の中の全員にとって暮らしやすい環境に決まっている」
 大切な考え方です。
 超高齢社会で「支えられる」立場の人が急増して「限界自治体」「自治体消滅」「老後破たん」なんて言葉がひとり歩きしています。でもいろんな師が急増しているのだと考えれば、心豊かな成熟社会に向かっていると言えませんか。

 支え合って、愛し合って、そしてなにより「教え合って」生きてゆくのが人間です。「人はみな師なり」なのですから。

posted by katsuhiko at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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